眼差しを眼差す ー家族という映像ー
伊藤俊治(美術史家/東京藝術大学名誉教授)
伊藤俊治(美術史家/東京藝術大学名誉教授)
かつてはどの家にも厚紙に写真を貼り付けた家族アルバムがあった。写真は年々増え、アルバムは何冊にもなり、押し入れの片隅に追いやられ、時折、取り出され、埃まみれのイメージを陽に晒された。「家族」の意味が大きく変わってしまった今では、その存在さえ忘れかけられているが、考えてみると家族アルバムとは不思議な存在である。
一人一人を家族という文脈に置くと、個々のあり様を超え、思いがけない光景が見えてくる。個人は家族の中で、より陰影を伴い、複雑さを秘めた関係を立ち上がらせ、単なる家族像を超えた時代の透視図を浮かび上がらせることもある。
積み重ねられた時間を内包した場所のゆらぎの中、家族の意味や位相は、頁をめくる度に変化していった。家族アルバムが当の家族以外にとっても興味深いのは、個々の記憶と歴史の織りなすイメージの息づかいを直に感じとることができるからだろう。
本写真集『ファミリー・アルバム』は、家族アルバムを見るという行為から始まっている。祖母の家で叔母や従兄弟たちと写っている自分がいる。祖父は瀬戸内海の離島出身で、曽祖父は明治時代にミカンやレモンを島の一大産業にした功労者だった。しかし祖父は島を出て、医者となり、母が生まれてまもなく家族と離れ、軍医として満洲へ出向いた。母は自分の父を尊敬し、息子に父のようになってもらいたいと願った。息子は劣等感に苛まれ、か弱く、不安定な人間だった。そのギャップが身を引き裂く。
父の転勤で息子は数年おきに転校を繰り返した。いい大学に入り、上場企業に入社し、うわべは母親の期待に応えようとした。新卒一斉採用、年功序列、終身雇用といった当時の日本型経済システムが敷くレールになんとか乗ることができたと思った。しかしその頃から日本の経済成長は長期的な低迷時代へ入ってゆく。就職難は若い人たちの所得差を広げ、少子化や未婚化も進んだ。
父の転勤で息子は数年おきに転校を繰り返した。いい大学に入り、上場企業に入社し、うわべは母親の期待に応えようとした。新卒一斉採用、年功序列、終身雇用といった当時の日本型経済システムが敷くレールになんとか乗ることができたと思った。しかしその頃から日本の経済成長は長期的な低迷時代へ入ってゆく。就職難は若い人たちの所得差を広げ、少子化や未婚化も進んだ。
1990年代から2020年代までの30年間、会社に忠実な、有能なビジネスマンとして働き続けた。結婚し、土地を買い、家を建てた。子供も二人できたが、ハードワークで運動会にも行けなかった。バブル崩壊、阪神大震災、リーマンショック、東日本大震災、コロナ禍といった時代の荒波を潜り抜け、必死に泳ぎ続けた。大きな変動で企業も体質や役割を変えざるをえず、その歪みや反動を真正面から受け止めざるをえない世代となった。その途上で何かが壊れてしまう。自分を大きく見せようと焦り、本来の自分を思い出せなくなり、人格がスプリットする。うつ病を宣告された時、自分が何処か世間とは隔絶した場所に移されたように感じた。
家に帰っても無性に寂しくなる。別居し、うつ病はこじれ、途方もない不安から逃れようとしても、妄想と悪夢がとめどない淵を覗かせる。何度か自殺を考え、2018年には離婚し、2020年に退職した。
家に帰っても無性に寂しくなる。別居し、うつ病はこじれ、途方もない不安から逃れようとしても、妄想と悪夢がとめどない淵を覗かせる。何度か自殺を考え、2018年には離婚し、2020年に退職した。
家族アルバムは、選ばれた良い写真と記念日や旅行の写真で綴られている。写真家は自分が壊れたと感じた時、家族を失ったと考えた。家族の象徴である家を売った時、さらにその思いは募った。実際、家庭とは日々の営みを指す言葉であるから、子供を育てるために存在する概念のように思えた。子供たちが成長し、自立してゆくと、家庭は自然に消滅してゆく。その時、逆に家族アルバムに大切な、思いがけない記憶が染み込んでゆく。
家族アルバムの頁をめくってゆくと、幼少の自分を母親が自宅前で撮った写真があった。その写真を携え、子供の頃に住んだ家へ行き、写真を撮ることを思いついた。古い写真と実景を見比べながら、同じになるようにアングルを工夫する。パースペクティブや高低差、仰角や俯瞰を考慮して撮ったつもりだが、うまくいかない。古い写真に線を引き、消失点を割り出し、水平と垂直を確認し、翌日、もう一度、その場所へ出かけて試行錯誤を繰り返した。ようやく手応えを感じたと思えた時、かつての眼差しをトレースするようにシャッターを切った。ファインダーが暗転した時、何かが乗り移ってきた。それは自分が覚えているはずのない、遠い母の眼差しの写しだった。
そもそも眼差しとは再生可能なのだろうか。眼差しを重ねるとはいかなることなのか。記号は反復可能だが、眼差しは繰り返されない。だから眼差しは記号ではなく、意味を生成させるものだ。眼差しは記号を介すことなく意味作用を生む。
写真も単なる記録ではない。それは深い記憶へ働きかける力を持ち、生きている実在の感触を伝える。ファインダーを覗きながら、幻の眼差しを探し求め、その感触を確認する。
写真も単なる記録ではない。それは深い記憶へ働きかける力を持ち、生きている実在の感触を伝える。ファインダーを覗きながら、幻の眼差しを探し求め、その感触を確認する。
かつての自宅前で写された古い写真の中で、母の眼差しは息子を探していた。息子の眼差しを乞うように、低く、低く、移動し、しゃがみ込むようになった。地にへばりつきそうな位置で、少し見上げるようにシャッターを切っていた。失われた、見えない''臍の緒''を見い出そうとするかのように。
家族の光景は頁をめくる度に現れ、消えてゆく。家族アルバムは見る者の内部でモザイク画のように結びつき、家族の生活の移り変わりを知らせてくる。『ファミリー・アルバム』には、写真家が写した母親の写真があった。その写真は表面的には家族写真であり、母親の内面を写すものではないし、母と他者の関係を示すものでもない。しかし、その人の前にカメラを構えて立つ時、写真はその人の暗闇も同時に写し出してしまう。
家族の光景は頁をめくる度に現れ、消えてゆく。家族アルバムは見る者の内部でモザイク画のように結びつき、家族の生活の移り変わりを知らせてくる。『ファミリー・アルバム』には、写真家が写した母親の写真があった。その写真は表面的には家族写真であり、母親の内面を写すものではないし、母と他者の関係を示すものでもない。しかし、その人の前にカメラを構えて立つ時、写真はその人の暗闇も同時に写し出してしまう。
『ファミリー・アルバム』は母親だけでなく、家族写真を構成する一人一人の暗闇も写し出し、家族写真とは小さな暗闇の集合体であることを明らかにする。家族の裂目が浮かび上がり、その亀裂から覗く闇に家族の本質が秘められる。写真家とは、その亀裂へ入り込み、そこから身を起こさなくてはならない存在なのだろう。直線的な時間軸からはみ出た見えない経験が錯綜する家族という織物の裏地を、めくり返すことで自分の位置を確認する。母親の闇を掠め取ると同時に自らの闇を暴く。眼差しの再生とは、その暗闇のリバースに立ち会うことであり。本作にはその眼差しが、いつまでも消えない鈍い痛みと共に刻印されている。